長野県埋蔵文化財センター 掘り出して伝える、宝と暮らしと文化
ニュースなどでたびたび取り上げられる、県内各地の発掘作業。それを担っているのは、長野県埋蔵文化財センター(埋文センター)です。設立は1982(昭和57)年。長野市篠ノ井に長野本所、飯田市北方に飯田支所を構え、現在は一般財団法人長野県文化振興事業団の一員として、県内各地の埋蔵文化財の調査・研究のほか、普及啓発活動の一環として、展示会や講演会、「夏休み考古学教室」などイベントの開催を行っています。この春には県内各地の遺跡から出土したまが玉を紹介する「まが玉カード」の配布も始めました。
普段、埋文センターがどのような活動をしているのか、所長の真関隆さん、調査部長の川崎保さん、調査第二課長の谷和隆さん、調査部調査研究員の水科汐華さんにお話を伺いました。
広く、埋蔵文化財を知ってもらうきっかけに
川崎さん
「まが玉カード」は15種類あり、写真と共に、遺物名、遺跡名を掲載しています。各カードは県内の博物館などで配布していて、そこではカードになったまが玉の実物を見ることができます。15種類のカードのうち、5枚を集めると「埋文博士」として学位証付きのカードホルダーを進呈しています。
どうしてまが玉をカードにしようと思ったんですか?
川崎さん
きっかけは、3年前に作った「縄文カード」です。県内は縄文遺跡が多いので、市町村や歴史館と連携して取り組みました。これが予想以上に好評で、第2弾も作成。そして今回、第3弾という位置付けで「まが玉カード」を作りました。縄文だけではなく、弥生、古墳と時代を広げて、特定の地域に偏らないものとして目を付けたのがまが玉でした。
真関さん
まが玉は、古墳だけではなく普通の集落などいろいろな場所で出土します。今回カードにしたのは、ヒスイの出土品としては日本で第2位の大きさの「巨大まが玉」(周防畑遺跡群・佐久市)や、おそらく日本で最小、米粒よりも少し大きいくらいの「極小まが玉」(塩崎遺跡群・長野市)など、大きさも色も形も多彩です。
川崎さん
関東地方、近畿地方、島根県がまが玉の三大産地とされていますが、長野県のものも中央高地型というか、独特でかっこいいと思います。特に「大王の所有品」(森将軍塚古墳・千曲市)は、いかにもまが玉!という感じの形でいいですよね。
谷さん
カード以外にも普及啓発活動としては、現地説明会や見学会、講座や出前授業、職場体験などもしていますし、速報展・展示会として「掘るしん」を県内各地で展開しています。
水科さん
夏休みには当センターで「考古学チャレンジ教室」を開いています。昨年は、服飾デザイナーの方とコラボして、貫頭衣(かんとうい、布の中央の穴から頭を出して着る原始的な形の衣服)に絵を描いてみる体験を開催しました。一昨年は、長野県文化振興事業団が県と取り組む信州アーティスト活動促進事業「next」とコラボして、画家・イラストレーターの森泉智哉さんと一緒にワークショップを行いました。
当日は、森泉さんのファンの子が来ていて、保護者の方が「埋文センターに来るのは初めて。考古学にも興味はないけど大丈夫ですか?」と心配していましたが、実際に見ると気になるものもあったみたいで、帰るときには「うちの子、歴史にも興味を持ったみたいです」と言ってくれて。うれしかったですね。
- 「考古学チャレンジ教室」の様子
カード以外にも、いろいろな形で埋蔵文化財に触れる機会を設けているんですね。
川崎さん
普及啓発活動とはちょっと違いますが、2018(平成30)年度からインターンシップの受け入れもしています。これは就活生の皆さんへの周知活動でもありますが、今、大学では博物館や考古学の現場での実習が減ってきているので、その受け皿になりたいという面もあります。昨年度は13大学・42人が参加してくれました。
谷さん
今は大学の考古学専攻も、座学が中心で、発掘現場に1回も出ないで卒業するという人もいるんです。
水科さん
私はここのインターンシップに参加して、就職しました。この間まで大学生だったので、学生目線で言うと、こんなに両手を広げてインターンシップ生を募集してくれる県の機関はなかなかありません。私が参加したのは始めたばかりのときで、5人しかいませんでしたが、その後、場所や立場は違いますが、全員がこの業界に進んでいます。昨年度参加してくれた学生の皆さんも、そうなったらいいですね。
谷さん
やはり裾野を広げて、新しい芽を育てていかないといけない。長野県でも、他県でもいいので、少しでも現場を体験することで、考古学の道へ進んでくれる人が増えればいいなと思います。
発掘=掘って記録する、だけではない
実際の発掘現場では、どのような作業をしているのですか?
川崎さん
当センターでは、高速道路やリニア中央新幹線などの開発事業や防災事業に伴う埋蔵文化財の調査をしています。災害時などは、一定のルールのもとで事務手続きが簡略化されることはありますが、発掘作業をせずに工事が入るようはことはしないというのが国の方針になっています。
市町村では、遺跡の範囲を示した「遺跡地図」を作成しています。発掘も本来は市町村が行うのですが、規模の大きいものは県の差配で当センターが担当します。高速道路や新幹線、ダムや河川改修など大規模なものは市町村では難しいので。私たちは、発掘して出土した遺物を整理して、市町村にお渡しするのと、調査報告書の作成を行っています。
谷さん
昨年度は主に、千曲川の治水関係、松本から高山の方へ向かう中部縦貫自動車道、あとはリニアですね。事業数で言うと13事業、遺跡数はカウントするのがちょっと難しいんですが、18地点くらいになると思います。
川崎さん
大きなトピックとしては、川原遺跡(飯田市)で「百済土器」の発見がありました。名前の通り、朝鮮半島南西部にあった百済(4世紀前半~660年)の領域で焼かれた土器です。出土したのは一昨年だったんですが、有識者を招いた検討会議の結果、百済土器の可能性が高いことがわかりました。日本の須恵器(すえき)に似た青灰色している焼き物で、出土した際も割れていなかったので、我々も何か大事なものなのではないかとは思っていましたが、大発見ですね。韓国の考古学の雑誌の特集記事にもなりました。
飯田地域は文化の先端というか、交流が活発だったのでしょう。地元の皆さんも比較的、「何か出てくるのは当たり前」みたいに思っているところがあるように感じます。耳環(じかん)という今でいうイヤリングのような金属製の耳飾りは、ほとんど古墳からしか出ないんですが、古墳以外の遺跡からコロッと出てきたりします。
普段、発掘作業はどうやって進めていくんですか?
川崎さん
遺跡から出てきたときは土がついているので、まずそれを洗います。その後、注記と言って、どこから出ましたっていうのを記録します。昔は面相筆で書いていましたが、今は遺物に接触することなくインク粒を吹き付ける注記機を使っています。それから破片を貼り付けていく。いかにもくっつきそうな形のものもあれば、バラバラのものもあって、足りない部分は石こうで復元します。あとは、写真を撮ったり、図面にしたりして記録し、報告書にまとめます。
発掘と、記録や復元作業は、両方やる人もいますが、同時並行で進めなければいけない場合もあるので、基本は別々ですね。作業員は、30年以上携わっているプロ級の方もいますが、退職後の方や、農家の方などもいます。でも最近は、なかなか人を集めるのが大変な地域もあります。
谷さん
夏は暑いですからね…。だいたい夏にワーッと一生懸命掘って、持って帰ってきて、台帳に記録する。そして冬や春先に、遺物の実測図を描きます。実測図の描き方を学ぶことが遺物の見方を学ぶことになります。掘るだけではなくて、何が出てきたのかを把握することが、私たちの仕事ですから。
水科さん
専門家ではない人でも、作業員としてお手伝いはできます。映画「ゆるキャン△」で主人公たちが発掘作業に参加するシーンがありましたが、とても忠実だな、と思って見ていました。
素人というか、考古学の知識がなくても参加はできるんですね。
谷さん
我々が指導監督として入って、作業員の方に「この土の色が変わるまで掘って」というようにお願いして、掘ってもらうことはできます。ただ、この穴をどうやって掘るか、隣の穴とどういう関係があるのかなどの判断は専門的な知識が必要です。
真関さん
各現場、職員が3人程度ついて、10~15人ぐらいの作業員の方と一緒に進めていますね。昔ほど多くの人を集めるのは難しいですが、そこは3Dやドローンなど、新しい技術を取り入れて省力化を進めたり、民間調査機関を活用したりしています。
後世への継承の鍵を握る「おたすけくん」
川崎さん
今、一つ課題としていることが、遺物の応急的保存処理です。それは保存科学という、考古学とはまた別の分野になります。保護科学の専門家を置いている機関があるので、そこで修復ができればいいのですが、まず持っていくまでに時間がかかる。発掘調査で遺物が出土してから長ければ10年かかることもあるんです。
水科さん
遺物というのは不思議で、土の中に眠っている時は、そんなに早く劣化しない。これはさびによってコーティングされていて、ものとしては安定している状態だからです。でも、発掘すると例えば金属製品の場合だと、苦手な水・酸素・塩素のうちの2つ、水と酸素に触れてしまう。だから急に劣化が進んでしまうんです。私たちが発掘調査をしていて出てくる遺物は、実は私たちの手にある時間というのはとても短い。長く眠っていたものが発掘されて、その後は多くの人の手によって守られ、長く継承されていきます。その継承の第一歩の鍵を握る私たちが、いかに劣化させないようにできるかで、考古資料の寿命も決まってきます。
そこで、人でいうAEDのようなものとして考えたのが「おたすけくん」です。“病院”に連れていくまでの応急処置ができるような薬剤や道具、出土から一時保管までのマニュアルをセットにしています。中に入れたものは、保存科学者が使うような高価で入手しにくいものではなく、ホームセンターで購入できるようなものにしました。今は、各現場に置くようにしています。市町村から応急的保存処理に関する問い合わせをいただき、紹介したこともありました。
川崎さん
どこに相談すればいいか分からない時に、「埋蔵文化財119番」みたいにまず聞いてみよう、というような存在になれれば面白いと思っています。当センターの多角化の1つの柱にしていければいいですね。
埋蔵文化財を保存するだけではなく、活用することで良い循環に
川崎さん
1982(昭和57)年に県からの派遣教員で組織された埋文センターが設立されました。でも、教員は3年、5年で異動になってしまう。技術の伝承もそうですし、そもそも報告書を書くのに10年かかることもあるわけで、引き継ぎが難しい。それで昭和の終わりから平成にかけて、大学で考古学を専攻してきた人たちを調査研究員として採用しました。私は”平成元年組”、谷さんは“3年組”ですよね。
谷さん
そうです。その3年間で10数人が採用されたのですが、その後25年間は採らなかった。それで間があいて、水科さんたちの世代になっています。今、入ってきてくれる若い人は、地域や社会に貢献したいという思いを持っている人が多い。発掘したものを保存し、活用することでどうやって良い循環を生み出すか。そこを試行錯誤しています。
真関さん
昨今は、文化財行政を観光や地域振興と組み合わせることで裾野を広げていくというのが、国全体の流れだと感じています。これまでの発掘作業や調査、普及啓発活動からもう一段階上の文化の向上という視点を意識していかなければいけない。事業の多角化や、市町村を巻き込んでの活動、水科さんのような若い世代の人たちのアイデアなどをさらに生かしながら、取り組みを進めていければと思っています。
全国の遺跡の数は約46万カ所。長野県内では1万4000カ所あり、全国8位という多さです。「え?そんなにたくさん?」と思った方は、市町村によってはウェブ上で「遺跡地図」を公開しているので、ぜひ見てみてください。意外と身近にある遺跡、そして埋蔵文化財。その魅力は、掘れば掘るほど深まるかもしれません。
取材・文:山口敦子(タナカラ)
撮影:清水隆史
長野県埋蔵文化財センター
長野市篠ノ井布施高田963-4