さくまんが舎 佐久から始まる新たな“漫画の道”
「お前はもう死んでいる」など数々の名台詞を生み出し、誕生から40年以上を経た今もなお愛され続ける不朽の名作漫画「北斗の拳」。原作者で長野県佐久市出身の武論尊さんが、漫画文化の発信拠点や地元での後進育成を目指し、2024(令和6)年3月に「さくまんが舎」を開設しました。館内では、武論尊(別ペンネーム・史村翔)さんが生み出した多数の作品を展示するほか、自身が塾長を務め、2018(平成30)年から開講している「武論尊100時間漫画塾」の学び舎として、プロの漫画家を目指す人たちをサポートしています。
施設建設の背景や漫画塾での取り組みなどを、「さくまんが舎」代表・清水浩貴さんと「武論尊100時間漫画塾」運営委員会委員長・伴野章夫さん、 さらに同塾の第1期卒業生である、みやけりくさんと松本文怜さんに、前後半に分けて伺いました。
「武論尊100時間漫画塾」の新拠点を兼ねた「さくまんが舎」
JR佐久平駅から徒歩約10分の佐久市中心部に位置する「さくまんが舎」。「生まれ育った佐久の地から一人でも多くの人に漫画の魅力を伝えたい」との思いで、武論尊さんが私財を投じて建設しました。入館は無料で、1階の展示スペースでは、武論尊(史村翔)さんの世界観の魅力に迫る原画や単行本などの展示とあわせ、漫画原作者としての50年の軌跡を紹介するほか、親交の深い漫画家などの作品展を企画。2階は「武論尊100時間漫画塾」の教室で、プロの漫画家を目指す12歳~46歳を対象に、無料で講義をしています。定員は30名で、塾長の武論尊さんをはじめ、有名漫画家や大手出版社の編集者などの講師陣が、一人ひとりを手厚くサポート。授業は毎月第2・第4日曜(8月・1月を除く)の年間20回(計100時間)で、2023(令和5)年度までは市の公共施設を借りて開講していましたが、今年度の6期生からは「さくまんが舎」が新たな学び舎となりました。これまでに在塾生を含む122名中、24名がプロデビューを果たす実績を誇ります。
- 2階へ続く階段には「北斗の拳」のキャラクター・ジャギのステンドグラスと、北斗七星をかたどった天井の照明
- 「武論尊100時間漫画塾」の教室
そもそも「武論尊100時間漫画塾」はどのようなきっかけで立ち上がったのでしょう。
伴野さん
私は武論尊と中学の同級生で、毎年開催している同窓会のなかで、2016年に「来年70歳を迎えるにあたり、何か残そう」と話したのが始まりでした。数カ月後、彼から送られてきたのが、予算5億円で漫画塾と奨学金(※)を創設する企画書です。武論尊自身が、家の貧しさから高校に進学できなかった経緯があるので、奨学金はすぐに理解できましたが、漫画塾は全く新しい取り組みで驚きました。やはり本人がアメリカンドリームならぬ“漫画ドリーム”で売れたので、その夢を地元の若者にも味わってもらいたいという思いがあったのでしょうね。翌年に市役所に企画を持ち込み、庁内に事務局を設置。教室はJR佐久平駅の近くの市営の交流センターを借りることになりました。
※経済的な理由で修学が困難な学生を対象にした返還不要の給付型奨学金制度で、2022年に4億円を追加し、合計8億円を寄付。
伴野さん
最初は3年続くかどうかという話でしたが、4年続いた2022年に、このまま漫画塾を続けるなら市に負担をかけてしまうので、新たな建物を建てようという話になったんです。土地探しから始まり、知り合い経由で現在の430坪の土地を購入しました。
清水さん
建物は佐久の風土と学び舎をイメージし、屋根の山の形をモチーフにしています。
- 山の形を模した建物からは周囲の浅間山や八ヶ岳、蓼科山を望める
- 木製の看板の文字は武論尊さんの直筆
「プロへの扉は俺が用意する」環境でデビューへの近道を
漫画塾では、方針や指導で大切にしていることはありますか。
伴野さん
この漫画塾の特徴の一つが、授業料が無料なことです。カリキュラムは運営側に任せてもらい、授業の内容は講師陣にお任せ。漫画の描き方やパソコンの使い方など実技指導をする講師もいれば、これまでの苦労話や漫画業界のマーケットの話をする講師もいますが、こちらから要望したことはありません。そのなかで武論尊が年3回、課題を決めて塾生に漫画を描いてもらい、一人ひとりに丁寧にアドバイスしています。
塾生の面接には私も参加していますが、よく言うのは「この塾は待っていても何も与えてもらえず、自分で動かないと成長につながらない」ということ。その代わり、有名な少年漫画雑誌の編集長が添削してくれます。大手出版社3社の編集者が来るのが、この塾の強み。ボケっとしている時間はないのかな。
- 展示スペースには、これまでの講師陣のイラストやサインがある
- 教室の一角には塾生の課題も
講師陣はそうそうたる顔ぶれですよね。
伴野さん
武論尊の仕事や趣味の仲間で、編集者は大手出版社の編集長クラスを武論尊が引っ張ってきています。編集者はこの塾で優秀な塾生を見つけて育てていく魅力を感じているようで、いわゆる青田買いですね。
清水さん
出版社も新たな人材を求めているので、ダイヤの原石を探すいい機会になっているようです。それに「さくまんが舎」ができたことで、毎月、漫画塾が実施されない第1と第3日曜日に「ウラ漫画塾」という活動が始まりました。卒塾生を含む6期までの全塾生に教室を解放していますが、これまで全塾生が顔を合わせる機会はなかったので、そういう意味でも「さくまんが舎」ができた価値は大きいですね。
伴野さん
「ウラ漫画塾」では東京から編集者が二人来て、全塾生の漫画の下描きを見てアドバイスをしてくれるので、真剣に取り組む塾生が多いんです。
そうした背景もあって、多くの塾生のデビューにつながっているのですね。
伴野さん
やはりポイントは、作品の持ち込み場所がわかること。武論尊の言葉を借りると「この塾は予選がない」ので、デビューまでの近道を進めます。「プロへの扉は俺が用意する」がキャッチフレーズです。それに特筆すべきは、武論尊が塾生にすごく慕われるんですよ。彼の誕生日には毎年、塾生が寄せ書きやケーキを用意してくれ、良い関係が築けていますね。
清水さん
今後の展望は「さくまんが舎」を通じ、漫画の世界の近さや漫画の魅力を一人でも多くの方に伝えていくこと。武論尊の思いを大切に、漫画を楽しんでもらえるさまざまな展示をこれから企画していく予定です。そして、やはり無料の「武論尊100時間漫画塾」という存在を広く知ってもらい、多くの方に挑戦してもらえたらうれしいですね。
ノウハウやハウツーだけでない、漫画家の方法論と精神論
それでは、実際に漫画塾ではどのように学び、プロの漫画家を輩出しているのでしょうか。2018(平成30)年に入塾した1期生でプロデビューを果たした、佐久市出身のみやけりくさんと松本文怜さんに話を伺いました。
お二人が漫画塾に入ったきっかけは。
松本さん
都内の大学に進学し、卒業を控えた4年生の頃、すでに東京の会社で就職は決まっていたものの、ずっとイラスト系の仕事をしたいという思いがありました。そこで、仕事をしながら漫画家を目指そうと本格的に描き出したのが2017年。結果的に仕事はすぐに辞めてしまい、佐久の実家に戻ってきたタイミングで、新聞で塾生募集の記事を見たのが入塾のきっかけです。応募には長野県ゆかりの漫画作品の提出が求められ、僕は今とは作風が違うコメディ漫画を提出したものの、当時はひどい絵だったので、よく審査を通過できたなと思います(笑)
みやけさん
私は小学生の頃から漫画家を目指していたものの、コマ割りがうまく描けず、高校卒業後は声優の専門学校に進学しました。ただ、演技が好きではなかったことから、担任の先生のアドバイスもあって、同校の漫画学科へ転科。卒業後、2017年に応募したコミカライズ企画でグランプリを受賞し、コミカライズの作画の連載でデビューが決まりました。そんななかで、同じく漫画家を目指す中学の同級生から漫画塾の話を聞いたのが応募のきっかけです。専門学校で漫画を学び、すでに仕事にもつながっていましたが、せっかく地元で開講されるうえに、武論尊先生は原作者であり、私もコミカライズの作画として原作を作るノウハウを知りたい思いもありました。それに、ネット上には漫画家を目指す人向けの情報はありますが、実際に漫画家になってからの情報はなかなかなく、次のステップの情報を得たいという思いもありました。
授業は思い描いていた通りのものだったのでしょうか。
松本さん
僕は当初、漫画のコマ割りやキャラクターの描き方などを教えてもらえると思っていましたが、話の作り方や起承転結、キャラの設定などがメインで、それがすごくためになりました。
みやけさん
第一線で活躍するレジェンドのような講師陣から、精神論や問題の乗り越え方などを聞く機会はなかなかなく、よかったですよね。授業のやり方も講師陣がそれぞれに方法を確立していて、漫画にはルールがないと感じたうえで、自分で学びたいことを選べました。しかも授業は無料。「武論尊先生、この地で生まれてくださってありがとう」と思いましたね(笑)
地方に住んでいることは漫画家の言い訳にならない
印象に残っている授業や、今の仕事に役に立っている学びはありますか。
松本さん
武論尊先生が「フィクションの中にもリアリティを」と教えてくれたことはずっと残っています。例えば「北斗の拳」なら、秘孔を突くと本当に体が温かくなるように、一つ真実があると、より物語のリアリティや深みが増すと言われ、今でも念頭に置いて企画やネームを考えています。それと「岳 みんなの山」「BLUE GIANT」などで知られる石塚真一先生の講義では、序盤はコマを大きく描き、ページ数が増すごとに細かくしていくと読みやすいと聞き、石塚先生の面白い人柄も相まって今も役立っています。
みやけさん
私は武論尊先生の「漫画は物語の大筋や幹(本質)がちゃんと見えるように、良い感じに剪定して枝葉をそぎ落とす作業だ」という話が、今の仕事にそのまま生きています。コミカライズの原作である小説は、情報を詰め込むほど良いとされていますが、漫画は描けるものが限られる分、面白い部分以外はそぎ落とさないと読者の邪魔になってしまいますから。
- 松本さんが週刊ヤングマガジンで連載していた「咲花ソルジャーズ」単行本
- みやけさんが作画を担当している「この冒険者、人類史最強です~外れスキル『鑑定』が『継承』に覚醒したので、数多の英雄たちの力を受け継ぎ無双する~」単行本
みやけさんはすでにデビューをされていましたが、松本さんのデビューの経緯は。
松本さん
僕は卒塾後、関係者から今の担当者を紹介していただき、第85回ちばてつや賞ヤング部門の大賞を受賞して連載が決まりました。もともとシュールなギャグ漫画を描いていましたが、担当者からシリアスな作風を提案されて路線変更したんです。実際に編集者とつながれるのも、漫画塾の魅力。もし一人で漫画を描いていたら、編集者との出会いは出版社への投稿や持ち込みしかありませんでした。
みやけさん
編集者側からこんな片田舎に足を運んでくれ、しかも自分の作品を見てもらえるなんて、普通はありえませんよね。
ちなみに、同期の存在は心強いもの?あるいはライバル?
松本さん
僕はすごく心強かったです。市内でこんなに漫画家を目指す人がいるんだと驚きましたし、皆のレベルの高さに勇気づけられました。今でも連絡を取り合っています。漫画家は孤独なので、この塾で得られた一番の宝は仲間だと感じています。
みやけさん
家で一人で作業をしていると煮詰まってしまうので、仲間同士のチャットで励まし合っていますし、先日はその流れから皆で飲みにも行ったよね(笑)。それに、卒塾後は松本くんが賞を受賞してオリジナル作品の連載が決まるなど、同期の活躍が、悔しさとともに励みになっています。特に私は、専門学校時代の漫画家仲間は東京にいたりと出版社との距離感などもあって同じ時間軸ではない気がしていましたが、漫画塾の仲間は同じ環境。今はデジタル化が進んでどこでも作業ができるので、地方に住んでいることが言い訳にはなりませんね。
佐久市で漫画家を目指すなら、応募しない手はない!
佐久だからできていることや、地元とのつながりを感じることはありますか。
松本さん
僕の連載作品は地方でくすぶっているラッパーが主人公で、舞台は佐久がモチーフだったので、背景資料がこの辺りで揃えられて助かりましたね。
講師として、塾生が市内の小・中・高校などで出張授業をしているとも聞きました。
みやけさん
私は講師として小学校や商工会議所で授業をしましたが、漫画が地域貢献まで意識がつながっているようですごいなと思っています。
松本さん
みやけ先生は作画塾もやっていますが、僕は講師として、デビューの流れや連載中のスケジュール、メンタリティなど経験談を中心に話しています。
みやけさん
松本くんは未経験からオリジナル漫画の連載にこぎつけた、卒塾生のモデルケース。私は漫画家の仕事の裏側などをわかりやすく紹介していますが、塾生が知りたいのは松本くんの話ですね。
- 卒塾生の活躍を知る教室の掲示も刺激に
- 卒塾生が手がけた漫画が並ぶ一角も
それでは、地域に根ざす漫画家として、今後の展望を教えてください。
松本さん
今は連載を終え、もう一度、新たな連載を取ることが小さな目標です。そして、ヒット作を生み出すことが大きな目標。映画化されるような作品を作りたいですね。
みやけさん
私は座右の銘が「人間国宝」です(笑)。大ヒット作を生み出して漫画を何本も連載し、財を築き、佐久市で武論尊先生の次になれるようなポジションを目指したいですね。
松本さん
僕は安定志向で、漫画だけで健康で文化的な丁寧な暮らしを送りたいという気持ちですが、やはり、みやけ先生のようなハングリー精神がないとやっていけない業界ですよね。
最後に、現在7期を募集中とのことで、入塾生に向けてのアドバイスやメッセージをお願いします。
松本さん
とにかく漫画を描きたい人はふるって応募してください。もし漫画を描いたことがなくても、少しでも興味があれば、応募を機に一度描いて応募することを強くおすすめします。
みやけさん
佐久市に住んでいて漫画家になりたいなら、入塾しない選択肢はありません。本マグロとウニが載った丼が目の前にあったら、食べますよね。しかも無料。そのくらいすごい塾ですし、いつまでこんなに豪華な講師陣が続くかわかりませんから。今がチャンスですよ!
佐久市での武論尊さんの功績は、漫画塾や奨学金だけではありません。「北斗の拳」のキャラクターが描かれたデザインマンホールやラッピングバスのほか、佐久市内に工場があるサクマ製菓の「さくまドロップス」ならぬ「さくしドロップス 北斗の拳バージョン」など、コラボ企画を多数実施。最近では、漫画塾の塾生と佐久市とのコラボも進み、ユネスコ無形文化遺産に登録された「跡部の踊り念仏(佐久市跡部)」の法被デザインも決まりました。漫画が地域に新たなにぎわいをもたらし、さまざまな広がりを見せています。
- 市内には北斗七星をかたどった「北斗の拳」デザインマンホールも
- これまで佐久市とコラボしたグッズ開発の数々
4人のインタビューから伝わってきたのは、他都市には真似できない魅力が詰まった「さくまんが舎」ならではの取り組みの矜持です。「わが生涯に一片の悔いなし」との名台詞が飛び出しそうなほど充実した漫画の新拠点。一歩足を踏み入れた瞬間、お前はもう、ときめいている。
取材・文:島田浩美
撮影:山辺優