安曇野ちひろ美術館 あらゆる人にとっての「ファーストミュージアム」に
絵本画家・いわさきちひろを中心に、世界の絵本画家の作品を展示する「安曇野ちひろ美術館」。世界で初めての絵本美術館として東京・練馬区下石神井に開館した「ちひろ美術館」が20周年を迎えた1997(平成9)年にオープンしました。コンセプトのひとつに「ファーストミュージアム」があります。子どもたちが生まれて初めて訪れる美術館として、館内で安心して過ごせるように設備を調えています。作品の中心は床から135センチと低めに設定し、約3000冊の国内外の絵本をそろえた部屋を用意。親子で楽しめる展覧会やイベントも企画しています。
同館の取り組みと美術館に込められた思いを、職員の松澤理佳さんと船本裕子さんに伺いました。長野県が提案して2017(平成29)年に制定された「いい育児の日」の11月19日に行われた、赤ちゃんと一緒に作品鑑賞できる「ファーストミュージアムデー」の様子も交えて紹介します。
見つめたり、触ったり、ちょっと飛び跳ねても大丈夫
「ファーストミュージアムデー」、皆さんリラックスして楽しんでいらっしゃいました。
船本さん
現在開催中の展覧会「あれ これ いのち」は、「自然」がテーマ。入ると波紋が広がる光の輪や、指で線を描くとちひろの絵の中の小さな生き物が現れるスクリーンなど体験型作品もあり、子どもたちが何度も繰り返して遊んでくれていたので良かったです。
- 展示室の様子
- 同展のディレクターを務めるアートユニット「plaplax」の体験型作品
対象が0歳~2歳となっていて、意外と幅広いですよね。最初に1日の流れを説明するときに、赤ちゃんの月齢と最近できるようになったことを紹介していたのも印象的でした。
船本さん
最初に今日の流れと、正面で絵を見られるような抱っこの仕方や、泣き出したり落ち着かなくなってきたりしたときの対応をアドバイスして、それから参加者の皆さんに自己紹介をしてもらっています。館内を一緒に回ることもあり、参加者同士の交流も大切だと考えています。
松澤さん
今日は「最近寝返りができるようになりました」「今日が2歳の誕生日」という子もいましたね。6カ月から2歳半くらいまでの子どもたちが参加してくれました。
まずは絵本の読み聞かせと、触れ合い遊びから始まったので、子どもたちだけではなく、大人の気持ちもほぐれていったように感じました。
松澤さん
「子どもの部屋」は靴を脱いで入るので、リラックスできるようです。絵本の読み聞かせは「ファーストミュージアムデー」だけではなく、ほかのイベントでも行っています。今日は私と、松川村図書館長の棟田聖子さんが担当しました。棟田館長はよく読み聞かせにきてくださって、いつもお世話になっています。
- 絵本の読み聞かせ
- 松川村図書館長の棟田聖子さん
「ファーストミュージアムデー」はいつ始めたのでしょうか?
船本さん
「ファーストミュージアムデー」は、2017(平成29)年に始めました。現在は年に2回、春と11月19日の「いい育児の日」に行っています。今日は平日だったのでお父さんは少なかったですが、春は土日に行っているので、家族みんなでという方もいますよ。
松澤さん
絵本美術館なので、子どもたちに親しんでもらいたいという思いは開館当初からありました。「ファーストミュージアム」として赤ちゃんや子ども連れでも利用しやすいような施設づくりを、より意識するようになったのは2011(平成23)年頃ですね。子どもが思うまま、自由に過ごせる場所でいいと思っていて、絵本を真剣に読んでいる子もいれば、床の木目が気になってずっと見ている子もいる。当館は松川村営の安曇野ちひろ公園の中にあるので、赤ちゃんが泣いたら外に出て園内を歩いたり、元気が有り余っている子は公園で走り回ったり。池で遊んで濡れちゃって、館内を裸足で歩いている子もときどきいます(笑)
船本さん
子どもたちにとってはもちろんですが、保護者の方にとっても癒される場所になれればと考えています。お家で息子さんを叱ってしまってというお母さんがいて、でも、館内でちひろの絵を見ているうちに、子どもの存在の大きさをあらためて感じて、「帰って抱きしめました」というエピソードを聞いたことがあって。日々の育児からちょっと離れて、ほっとできる場になれればいいなと思っています。
大人にとっても貴重なひとときになっているんですね。
松澤さん
絵本は人が最初に出会う美術であり文学。文化の背景も超えて、皆が楽しめるものでもあります。「絵本は文化財」というのはちひろ美術館の基本理念。子どもだけではなく、さまざまな事情で美術館に来られなかった人も含めて、あらゆる人々にとっての「ファーストミュージアム」でありたいと考えています。
“ちひろ作品”が持つ力
船本さん
「美術の鑑賞なんて難しそう」と大人でも思ってしまうかもしれませんが、肩ひじ張らずに見ていただければと思っています。来館者の皆さんも、自分の人生や、家族や子どもと重ね合わせて見てくれているように感じます。「この子、うちの子とそっくり」とか、「小さいときに、この絵本読んでもらったな」とか。
松澤さん
ちひろ作品は、絵との距離を感じることが少ないですね。どう理解すればいいか、みたいなこともあまり考えなくていい。子どもたちを見ていると、「これ知ってる!」と幼いながらも自身の経験と重ねて絵を見ているのが分かります。ちひろは子どもの愛らしさをずっと描き続けてきた。その絵の力に救われる人もたくさんいるのだと思います。
船本さん
以前、中学生を対象にした鑑賞授業で、好きな絵を選んでその理由を話す時間がありました。一人の女の子が、「海辺の小鳥」という絵を見て、「この小鳥は、まだ見ぬ広い世界に飛び立ちたいと思っている」と話してくれたんですね。引率していた先生がちょっと涙ぐんでいたので、後で聞いたら、彼女は不登校でずっと学校に通えていなくて、「彼女の思いと小鳥の姿が重なった」と。今回、ちひろ美術館に行くというので初めて美術の授業に参加できたということでした。
子どもの頃、自分が何を考えているのか、どう感じているのかって、あまり言葉にできないじゃないですか。それを、絵を通して表現できたということに大きな意味があると思います。心の本音の部分をちひろ作品が引き出してくれて、皆で話すことで、お互いを深く理解することにつながっていく。ちひろ作品には、そのきっかけとなる力があるのではないでしょうか。
松澤さん
ライフステージによっても感じ方が違ってきます。館内には感想を記入できるノートを置いているのですが、親になったり、孫ができたり、大事な人が亡くなったりと、自身の出来事と重ね合わせて感想を書いてくれる人が多いです。ここで出会った作品が、その人の心のそばに寄り添い、背中を押したり、一歩踏み出したりするきっかけになればうれしいですね。
周囲と連携して、子どもの成長を見守る
松澤さん
松川村で赤ちゃんが生まれると、「ファーストブック」として絵本をプレゼントしています。2002(平成14)年に始めて、現在は4カ月検診のときに私たちが保健センターに出向いて、持参した10冊ほどの絵本を説明して、好きなものを選んでもらっています。
子どもの居場所となるようにと、高校生以下、18歳以下は入館料を無料にしています。
船本さん
松川村は、小中学校が1校ずつで、美術館も1館だけ。そういう環境なので、連携も取りやすいです。2001(平成13)年、「世界の絵本館」のオープニングセレモニーで、ポーランドの絵本画家ユゼフ・ヴィルコンの音を奏でる立体作品「歌うドラゴン」を松川中学校の吹奏楽部が演奏してくれたことがきっかけで、翌年から松川中学生ボランティアがスタートしました。コロナ禍で中断した年もありましたが、20年以上続き、これまでに延べ3000人以上が参加してくれています。
3000人以上!そんなたくさんの中学生が参加してくれているんですね。
船本さん
希望者を募る形なので、参加者数や活動内容は年によって異なりますが、大切にしているのは、アーティストや作品と来館者をつなぐ架け橋となる役割。作品の解説のほか、ギャラリーツアーや絵本の読み聞かせ、ちひろの水彩技法の一つである「にじみの技法」を体験できるワークショップなども担当してもらっています。
松澤さん
夏休み期間ということもあり、絵本の読み聞かせは、誰か1人は平和を題材にした絵本を読んでくれるのですが、絵本を読み込んで何度も練習して本番に臨むので、聞く人の心に深く届いているのがよく分かります。
- 8月に行われた松川中学生のボランティアの様子
上手い下手ではなく、懸命な姿は心に響きますよね。
船本さん
ボランティア活動を通じて、一人ひとりが美術館のことを自分の居場所のように感じてくれたらうれしいです。中学生もそれぞれなので、人前でしゃべることが得意な子ばかりではありません。それでも初日は緊張してあまり声が出せなかったから、次は元気な声で話せるように、その次は分かりやすく説明ができるようにと、自分自身で課題を見つけて、克服していく。参加してくれる子の中には、1年生から3年間続けてくれることもあって、毎年できることが増えていって、3年生になったら1年生のサポートもしてくれる。たくましい成長を見せてくれます。
松澤さん
中学生くらいだと、親とか友達以外に「ありがとう」って言われることってそうそうないですよね。来館者やワークショップで教えた子どもからの感謝の言葉が、中学生たちにとっては貴重なものになっていて、「俺、こんなこと言われた」とか皆で言い合っているのを見ると、「ありがとう」というのは魔法の言葉だと思います。
船本さん
ボランティアの経験をきっかけに、接客の仕事に就いた人もいます。活動を通じて「人と接することが好き」と分かり、そういう道を選んだと言っていました。博物館実習で来た大学生や、近隣の役場の職員の方が、中学生ボランティアをやっていたと話してくれたこともありました。今、働いている職員の中にも子どもの頃に中学生ボランティアに接してもらった経験があって、その時作ったカードを今も大切に持っているという人もいます。
20年以上続けているからこそですね。
船本さん
私設の美術館なので、私たちのように長くいるスタッフはずっと子どもたちの成長を見守ることができていて、ありがたいです。
松澤さん
ちひろの作品に込められているのは、子どもの幸せと平和。この一言に尽きます。この思いを形にして伝えていくのが「ちひろ美術館」です。ここで育った子どもたちが10年後、20年後の美術館を支えてくれる。そんな地域に根付いた美術館を目指して、これからも活動を続けていきたいです。
取材した「ファーストミュージアムデー」は、初参加という人も多く、村外在住者や、遠くは名古屋からという人も。夫婦それぞれ訪れたことがあり、「子どもが生まれたら一緒に行こう」と「ファーストミュージアムデー」に合わせて旅行の日程を組んだそうです。ほかにも、「ゆっくり見られて良かった」「意外と絵に興味を持ってくれたことが発見だった」という声もありました。
子どもだけではなく、子どもや家族と一緒に訪れるのは初めてという大人、そして、これまで美術館に行く機会がなかったという人にとっても緊張せずにゆっくり過ごせる美術館。安曇野ちひろ美術館は、これからもより多くの人にとっての「ファーストミュージアム」になるはずです。
取材・文:山口敦子(タナカラ)
イベント・インタビュー撮影:平林岳志
安曇野ちひろ美術館
北安曇郡松川村西原3358-24
現在、冬期休館中です。2025年は3月1日(土)より開館します。