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大昔調査会 諏訪の文化基盤を市民の力で花開かせる

大昔調査会 諏訪の文化基盤を市民の力で花開かせる

諏訪の文化シーンは、なんだかこのところとても盛り上がっているように見えます。2022年秋、上下社神宮寺由来仏像が各寺社・施設で一斉公開された「諏訪神仏プロジェクト」。2024年秋には「SUWA×文楽2024」で、人形浄瑠璃の八重垣姫の物語が、ゆかりの諏訪湖畔八重垣姫像の前で初めて野外上演されました。いずれも全国区の話題になったので、ご記憶の方も多いのではないでしょうか。さらに2025年正月からは、諏訪信仰をテーマにしたドキュメンタリー映画「鹿の国」が全国で好評上映中です。実はこれらの企画はすべて、一般社団法人大昔調査会が支えてきたもの。しかも、このようなイベントは大昔調査会の活動のほんの一部に過ぎないといいます。いったいどこから、これだけのパワーがもたらされるのでしょうか。代表理事の髙見俊樹さんに伺いました。

SUWA×文楽2024の背景

SUWA×文楽2024の美しいハイライトシーンは、多くのメディアで報道されましたね。

髙見さん
これ、実は「諏訪神仏プロジェクト」の関連事業で2022年に1回目を岡谷市の照光寺でやったんです。演じられた「本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)奥庭狐火の段」は、ご存じの通り、諏訪を舞台にする唯一の演目なんですが、武田勝頼の念持仏とされる秘仏を照光寺が公開してくださったこともあって。文楽は、下諏訪温泉の旅館「ぎん月」の若女将・武居智子さんが大ファンで、以前からなんとかこの演目を諏訪に呼べないかと言われていたんです。照光寺の僧侶・宮坂宥憲さんも大昔調査会の会員なので、光明閣という素晴らしいホールをお借りして上演しました。でも、文楽の側には出張公演のプロデュース専門の方はいらっしゃらないですし、受け入れ側でお金も人手もがかかります。そこで信州アーツカウンシルにご支援いただいて、手作りでなんとか1年目が実現しました。

文楽公演はその後2回目、3回目と続きます。

髙見さん
単発のつもりでしたが思いのほか好評で、「見逃したのでぜひ見たい」「もう一度見たい」というお声が多くて。連続開催は苦しかったのですが、翌年になんとか開催した2回目もまた好評でした。諏訪清陵高校附属中学校でのワークショップもセットしたんですが、子どもたちにも人形を操ってもらってすごく楽しかったと評判でした。ひとえに人形遣いの吉田勘彌さんたちのおかげなんですが、演者の皆さんも嬉しかったようでした。

  • 写真:大昔調査会 文楽公演『本朝廿四孝 奥庭狐火の段』を演ずる吉田勘彌さん(左)
  • 写真:大昔調査会 文楽公演諏訪湖畔公園の野外仮設ステージで上演
  • 写真:大昔調査会 文楽公演冒頭シーン、笛を吹く宮坂清宮司と八重垣姫像
  • 写真:大昔調査会 WS実施 諏訪清陵高校付属中学でのWS実施(2023年)

そしてついに野外、諏訪市湖畔公園の八重垣姫像前の舞台で。

髙見さん
これは、ぎん月の武居さんの念願でもあったんですが、私は「絶対無理!」と言っていました(笑)。ところが、諏訪圏青年会議所が湖畔公園で「諏訪圏フォーラム」を開催するということで、宮坂宥憲さんが理事長をつとめているつながりもあって、提案いただきました。そこで信州アーツカウンシルから3年目の助成金を頂戴した上に、クラウドファンディングで資金を募集して実現を目指すことにしました。この成果を広く共有していただくための映像作品を作るというオプションもつけて。すると、地域の方々だけでなく、全国の文楽ファン、古典芸能ファン、吉田勘彌ファンの皆さんからご支援が集まり、目標を達成することができました。
寄附者限定の照光寺での上演では、「奥庭狐火の段」の前段、「十種香の段」を、本堂の、武田勝頼の念持仏とされる秘仏が安置された厨子(ずし)の前でやったんですが、これは武田勝頼の里帰りとも言うべきシチュエーションとなりました。正に鬼気迫るような名舞台でした。そして翌日が諏訪湖の舞台。地元で演出、撮影や広報を担ってくださった皆さんや、御諏訪太鼓の山本麻琴さん、すごい人数の裏方さん方に協力いただいて、結果的にとても良かったですね。イントロでは、夕闇迫る諏訪湖面に八劔神社の宮坂清宮司が小舟に乗って篠笛を吹きながら登場し、終演の暗転の中で演者さんたちが舞台を降りて、八重垣姫像の前で決めポーズを取りました。

写真:大昔調査会 諏訪湖をバックにしたラストシーン諏訪湖をバックにしたラストシーン

あれは文楽の歴史に残る名場面でした。

髙見さん
はい。このSUWA×文楽を軸にして、諏訪の歴史と文化や自然などを発信する短編映画も制作中です(2025年4月頃に公開予定)。

地域の力でできた諏訪神仏プロジェクト

諏訪神仏プロジェクトはどうだったのですか?

髙見さん
これは、明治まで長く続いた諏訪地域の「神仏習合」に光を当てて、今も残されている旧諏訪社神宮寺由来の仏像を各寺社や博物館で二ヶ月余りに渡って一斉公開するという画期的な取り組みで、諏訪大社や各寺社の全面協力の下、民間主導で開催できたことが良かったように思います。

  • 写真:大昔調査会 諏訪神仏プロジェクト諏訪神仏プロジェクト
  • 写真:大昔調査会 諏訪神仏プロジェクト

<解説>
諏訪神仏プロジェクトは、民間主導による文化的ムーブメント(現在も毎年イベントを続行中)。諏訪市仏法紹隆寺の岩崎宥全住職と、スワニミズムの石埜三千穂事務局長が、諏訪清陵高校同窓会の「諏訪力講座」で出会い、その際に紹介した旧諏訪社神宮寺由来の仏像を「一斉公開したい」という思いを共有したことから始まったもの。仏像を所有する寺社・団体と諏訪大社・公立博物館等の賛同を得て、諏訪信仰研究団体スワニミズム(会員50名)の会長・原直正さんが実行委員会長を務めた。地元CATV局エルシーブイや、地域商社SUWA、合同会社ヤツガタケシゴトニン、上社周辺まちづくり協議会、諏訪東京理科大学三代沢ゼミなどが協力し、資金は地元新聞社や諏訪信金、地元企業や、氏子・檀家会が賛助会を結成して募った。髙見さんは当初から事務局長を務めた。

髙見さん
諏訪神仏プロジェクトが何とか成功したのは、皆さんの協力体制があってこそです。企業でも、ヤツガタケシゴトニンさんなどは、Webサイトや印刷物の仕事をしているのですが、ただ地元の仕事を請けているだけでは面白くないと、理念に共感して、地域の歴史を地域の人たちと一緒に掘り起こすすごいイベントだからぜひやりたい、と言ってくれて。諏訪には意気に感じて低価格でも一緒にやってくれる会社や団体や人が多いので、大昔調査会の事業も成り立っていると思うんです。

考古学研究者として、諏訪市職員としての歩み

そんな髙見さんのいまに至るまでを、順を追ってお聞きしたいんですが。

髙見さん
そうですね。諏訪清陵高校時代は地歴部考古班にいて、いま大昔調査会の理事をやってくれている三上徹也さんと五味一郎さんとは同学年の同志でした。そのまま考古学の道に進み、東北大学で大学院の修士課程に進んだんですが、途中で文化財行政に呼び寄せられて、故郷へ帰ってきて諏訪市の職員になりました。当時は中央道建設による発掘調査の全盛期、諏訪市埋文行政の確立期で、一般文化財担当も兼務だったので、それこそ命がけで10年くらいやったような気がします。当時の私のスローガンは「自分は遺跡・文化財保護の志願兵だ!」でした(笑)。

その後、諏訪市博物館の立ち上げ時の学芸員を担当したのですね。

髙見さん
そうです、準備室段階から。当時は「諏訪市史」上巻の編纂にもかかわっていました。建物の完工が1989(平成元)年で、開館が1990(平成2)年なんですが、もうその頃は、通り一遍の資料館をつくるんじゃだめだという考えがありました。諏訪社の歴史や通史的な歴史にとどまらず、地域で培われた文化と一体となった歴史、神仏習合も中世説話も民話伝承も含めたものにしたくて。信仰行事とか御柱とか、今につながるものを背骨にして歴史を再構成する、それも、ビジュアルで感じていただくような展示にしようと努力しました。展示室Iの一番奥に神仏習合のシンボルとして、旧上社神宮寺の模型を作り、その五重塔に祀られていた五智如来像も、縁あって現物を保存展示できることになったんです。

  • 写真:諏訪市博物館諏訪市博物館 外観
  • 写真:諏訪市博物館諏訪市博物館 常設展示室

あの時にできた人脈が今も脈々と。

髙見さん
はい、ビジュアルフォークロアの北村皆雄さんもそうだし、亡くなった縄文図像学の田中基さんも、スワニミズム会長の原直正さんも。楽しかったですね。地域で一緒にやってくれる人も多くて。「訳の分からない展示じゃねえか」とか、アンチも当然多かったんですが(笑)、でも当時は行政も諏訪大社も、鷹揚(おうよう)に構えてくださっていました。

文化財行政の「失われた30年」

その後ずっと市の職員として在籍していて、文化行政の変化は感じましたか?

髙見さん
博物館を立ち上げた後、「お前はえらい金を使ってくれたな、一回集める方の気持ちになってみろ」と税務課にまわされて(笑)。でも、県の地方課の税務部門にも派遣されて、とても勉強になりました。税制は法律でばっちり決められていますから、政治家が介入する余地はないんですが、博物館や文化行政には首長はじめ皆さんの思いつきが入る余地がいっぱいあって(笑)、学芸員の展示意図とは異なる要素が入りやすいんです。

でもそうこうするうち、文化行政予算がどんどん削られていった。

髙見さん
そう。私が税務課にいた平成6年ごろからどんどん厳しくなっていって。この博物館も、「人あって生きる博物館」だったのに、その人を配置する予算が削られてしまった。やはり平成の30年間ですよね、全国的風潮のなかで、長野県の文化財補助金も、小さい文化財の修復や埋蔵文化財に対してはばっさり切られてしまって。やっぱり福祉や民生部門と違って、文化は生死に関係ないお遊びだと思っている人もいます。それは大きな間違いで、実は文化芸術こそ人間が人間らしく生きる糧の根本なんだけど。自治体の理事者や財政当局もそうですね、裕福な時はいいけど、苦しい時は文化予算なんか切りますよと、当然のように言われてきました。

写真:大昔調査会 代表理事の髙見俊樹さん代表理事の髙見俊樹さん

市職員としての最後は教育次長でしたよね?

髙見さん
はい、最後の5年間、2010(平成22)年から2016(平成28)年ですね。文化行政も学校関係も、教育行政全般の事務方でしたが、本当に世知辛い世の中で学校建設以外の教育予算は相当限られていました。理不尽なクレームや要求も多くて、学校現場も文化施設も疲弊気味でした。かつて諏訪地域には学校の先生方が「地域研究」を主導してきた伝統があったんです。高校生もそうです。大著『諏訪史第一巻』なんかも、かつての信濃教育会諏訪部会という、先生方の任意団体が、学者の指導を受けながらあれだけの凄いものを作っちゃった。そういう力が失われてしまった。それから、諏訪市独自の、今思えば未来型の教育施設だった「蓼科保養学園」も、新型コロナ禍と耐震化問題をきっかけに、百年の歴史に幕引きとなってしまいました。
でも、私は初めから文化行政というものは教育委員会などの行政だけが担うべきものじゃないと思っているので、じゃあ行政から独立した自立的な市民運動、ムーブメントとして、文化財保護や歴史文化に根ざしたまちづくりを担う機関が欲しいなと思って、退職後に早速それを立ち上げました。

大昔調査会の立ち上げ

退職と同時に立ち上げた?

髙見さん
はい。同じように感じていた同志もたくさんいて、文化財に関わっていて退職した人たち、学校の先生だった人、司書だった人、現役の職員、一般の歴史・考古ファンや研究者など、たくさんの仲間と一緒に会を立ち上げました。会の理想は高くて、入会の条件は、「自らお金を払って歴史文化遺産の保護・活用・顕彰に資することに喜びを感じる人」ということだけなんです。だから、入会金1万円、年会費6千円を払ってもらっても、あまり会員リターンはないです(笑)。かかわった出版物や情報は全部提供しますが、研究や勉強はご自分でやってください、諏訪には多くの民間研究団体があるのでと。もちろん会務を担ってくれた時には多少の日当は出しますが、これで文句を言う人はほとんどいないですね。

諏訪市役所の在籍期間中から着想・準備していたんですか?

髙見さん
着想していて、ネーミングとかいろいろ考えていたんですよ。大原則は、行政の下請けにならない、癒着しない、お金目的で行政や企業に寄生しない、ということ。だから、さきほどの蓼科保養学園の百年史も、業務委託なので完成品として冊子は作りますが、実は強いポリシーを潜ませています。高島城の復興50周年記念誌も、編集制作を担当しましたが、当初はA4ペラ程度の記念誌で作りたいという話だったんですが、それではあまりに事務的だし広がりがないという話になって。では同じ予算内で「決定版のガイドブック」を出してしまおうということにしたので、会としてはすごい持ち出しをして作っちゃったんです。本文を書いてくれた会員の中には行政の職員さんもいるんですが、そういう意識の高い仲間がたくさん関わってくれているのでこれも実現できました。

すわ大昔情報センターの運営も?

髙見さん
実を言うと、当初私が考えていた法人名が「諏訪大昔情報センター」なんですよ。ちょうど法人設立を構想している時期に、諏訪市博物館がリニューアルになって、藤森栄一先生や戸沢充則先生などの蔵書の収蔵、そして一般開放の閲覧室を作るという計画と重なった。当時の教育委員会事務局の方に、「計画中の新法人で運営を受託できますよ」という話をしたんです。そうしたら、「ぜひ委託したいけれど、その名前をもらいたいよ」ということになっちゃって(笑)。ではこちらはいっそのこと、大きなムーブメントにするために「諏訪」を外して、広い意味で「大昔」でと。会の定款では「大昔」を原始古代中世、「昔」を近現代とか言っているんですが、最近はそれもやめて、大昔とは「地球誕生から昨日まで」で、なんでもやるということにしています(笑)。本当にね、現代社会では昨日の記録だってどんどんなくなっていくんです。この恐ろしさといったら…。

  • 写真:大昔調査会藤森栄一の墓参りをする髙見さんと三上徹也さん
  • 写真:大昔調査会諏訪考古学研究所を立ち上げた藤森栄一(1911〜73)

ここの運営受託が軸になっているんですね。

髙見さん
はい。ありがたいことに、イベントなど自発的な活動も含めて運営を任せてもらっているので、専門的職員を指導員として配置して、管理運営・資料整理やレファレンス…本来は学芸員の業務である部分も協力し合ってやっています。でも、ただ行政にとってこれでいいのかということは、いつも考えています。私たちが請け負えばある意味便利ですが、じゃあ指定管理制度で館の運営を全部やってくださいという話になりかねない。そうなると、図書館や美術館もそうですが、行政が責任を持つべき文化財行政そのものが根本から崩壊してしまうんで。

大昔調査会の現状と課題は

法人名から「諏訪」を外して、活動の広がりはどうですか?

髙見さん
これまで7年やってきて、会員数は60人を超えました。東京や奈良などにも何人か会員がいて、理念に共感してお金を出してくれている人も、自分の地元でもこういう活動をしたいと思っている人もいます。まだまだ形にはなっていませんが、本当にそういう横のつながりを広げたいと思っています。でも私が直営できるのはやはり諏訪地域だけなんですが、最近は業務をかなり手広くやってしまっているので事務もほとんどパンク状態なんです。「大昔カフェ」(地域の歴史・民俗をめぐる茶話会)という会を毎月やってるんですが、このような、行政とは関係ないところで一般市民に広がる自主事業が全国的に展開できればいいなと思っているんですが。

写真:大昔調査会

諏訪の中ではずいぶん根づいてきた印象がありますが。

髙見さん
ありがたいことに、そうかもしれません。諏訪には、実は私も所属しているスワニミズム(諏訪信仰研究団体)や諏訪考古学研究会はじめ、歴史的なまちあるきを続けている諏訪塾とか、協力関係にある団体がたくさんありますから。「高島城保存協力会」や、「武田信玄狼煙リレー」をやっている「のろし文化調査会」なんていう団体もあるんですよ。諏訪考古学研究会の場合は、みんなが忙しすぎて少し前までは、活動はじり貧状態でした。大昔調査会を作ったもう一つの隠れた理由に、地方に多い、こうした消えそうな学会・研究会の事務部門を引き受けて盛り立てようというのもあったんですよ。まだそこまで手は回っていませんが。

やはり課題は業務体制の強化ですか。

髙見さん
ええ。本当は常勤の理事長・事務局長くらいにはちゃんと定額の報酬を払い、いま臨時の日雇いで来てくれる事務員さんだけという業務体制も、もっと強化しないといけません。やはり一つの問題は財源で、現在の主な収入は会費のほか自治体や国庫からの請負業務なのですが、安定財源を求めていかないと。それから、私も2年後の10期目には70歳になりますで、大昔調査会も「ひと昔前」になりかねないので(笑)、後継者問題も実はとても大きいんです。

藤森栄一の活動を目標として

今後力を入れていきたい方向性としては?

髙見さん
いちばんは文化財の保全と記録です。古民家や歴史的建造物、お蔵の文書など、いまこうしている間にも失われている文化財があります。それがやむを得ず無くなったとしても、必ず記録には残したいんです。記録保存といって、当会では一番大切にしていることです。かつての諏訪では、藤森栄一先生と民間の諏訪考古学研究所がそういう機能も担っていたんですよね。どこかに遺跡や文化財の保存問題があれば、すぐに仲間と一緒に飛び込んでいく。諏訪湖底・曽根遺跡の保存問題や、ビーナスラインの建設で壊されそうになった霧ヶ峰の旧御射山遺跡の保護も、みんなそうです。いまは核になる強力な団体がないんですが、市民の力でそこに踏み込まなきゃいけないと思うんですけれどもねぇ。本当に危機に瀕した文化財や歴史的建造物がいっぱいあるんですよ、みんな見て見ぬふりをしていますが。

写真:大昔調査会 代表理事の髙見俊樹さん

やはり髙見さんのロールモデルは藤森栄一さんですか?

髙見さん
そうですね。理想ですが、なかなか近づけないですけれどね。あんなに全部の役割を担って、地域の文化の柱であり続けた藤森先生と諏訪考古学研究所は、ものすごい多機能を担っていたんですよ。文化財行政のサポート、人材の育成・掘り起こし、遺跡や文化財の保存問題…。ですから、私たちが後継団体になりたいという思いは本当はあるんですが…。とても藤森先生のようにはできないけれど、関係団体やみんなが集まって、足りない部分は補い合って、歴史的文化遺産とともに地域ぐるみで一緒に成長していければいいなと思っています。

取材・文:石埜穂高
撮影:三好妙心
写真提供:(一社)大昔調査会

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