~コロナ禍における南信州の民俗芸能~民俗芸能の今と、未来のあり方を考えるために
南信州は民俗芸能の宝庫と言われています。古い歴史を持ち、全国的に見ても神楽や田楽、歌舞伎や人形芝居などさまざまな種類の貴重な芸能が伝えられてきました。国の重要無形民俗文化財に指定されたものもたくさんあります。毎年、各地域で多くの芸能が催されてきましたが、この1年は新型コロナウイルス感染症の影響を受け、中止や縮小を余儀なくされました。今回の特集では、元・飯田市美術博物館学芸員で現在も南信州の民俗芸能を調査・研究されている櫻井弘人(さくらいひろと)さんに南信州の伝統芸能の現在に至る背景を解説していただくとともに、各地域の芸能の担い手の方から、現在の状況や今後の展望について伺いました。
古い芸能から新しい芸能まで多様・多層に残る「日本の芸能史の縮図」
まずは南信州の民俗芸能の様子を教えていただけますでしょうか。
櫻井
長野県にある国指定重要無形民俗文化財10件のうち6件、選択無形民俗文化財22件(個別の民俗芸能・行事)のうち11件が南信州に集中しています。国指定重要無形民俗文化財は時代が古いものを対象にしており、『天龍村の霜月神楽(てんりゅうむらのしもつきかぐら)』、正月行事の新野の『雪祭(ゆきまつり)』(阿南町)、盆の行事として『新野の盆踊(にいののぼんおどり)』(阿南町)、『和合の念仏踊(わごうのねんぶつおどり)』(阿南町)などがあります。これらと同じ種類の民俗芸能は、県境を越えて愛知県、静岡県にまで広がります。これらよりも新しい時代に流行した人形芝居、歌舞伎、大型練り獅子(獅子舞)などの独特な芸能は、飯田市を中心に濃密に分布しています。古いものから新しいものまでさまざまな芸能が多層的に受け継がれているケースは珍しく、全国的に見ても南信州は重要な地域と言えます。芸能研究者の三隅治雄(みすみはるお)さんは「日本の芸能史の縮図」と紹介しています。
- 正八幡宮(上町)での『遠山の霜月祭』の様子
時代の変化により、民俗芸能や地域のあり方も変化してきたと思いますが、櫻井さんはその変化をどのように捉えていらっしゃいますか?
櫻井
私はこの地域の民俗芸能を二つの時代区分で考えています。一つは、中世から近世に遡る古い芸能群で、信仰色が強いもの。もう一つは近世中期以降の人形芝居、歌舞伎、獅子舞で、都市の住民を楽しませる、言わば娯楽的な芸能です。後者が盛んになった地域では前者の芸能は失われていきます。
その後、明治維新など民俗芸能が激変するようなきっかけはいくつかありましたが、特に戦後、昭和30(1955)年代中ごろから映画やテレビが娯楽の中心に移る中で廃れていきました。その一方、昭和40(1965)年前後からは民俗芸能は地域にとって大切な文化だという意識が生まれ、絶えた芸能を復活させる動きが起きました。保存会ができ、子どもたちへの継承活動を始めた地域もあります。ところが昭和50(1975)年代になると今度は少子高齢化が問題になってきます。
地域に子どもがいない、若者がいないことが根本的な課題になるわけですね?
櫻井
そうです。民俗芸能は地域のコミュニティの中で伝わっていきますから、これが維持されている集落は健全だと言えます。他方で、集落の少子高齢化が進み、地域外からの応援の仕組みなどをつくらないと芸能を残していけないところも生まれています。地域の当事者たちとしては「村のものだ、集落のものだ」という意識が強いのはもちろんですが、地域全体の共有財産だという視点で支えていくことも大切です。
いくつかの地域では、すでに村外から応援に来てもらうことで民俗芸能の継承に取り組んでいるとも聞いています。
櫻井
『遠山の霜月祭(とおやまのしもつきまつり)』(飯田市)で言えば、中郷(なかごう)地区では10年前、上町(かみまち)地区では2年前から市外に応援を求めるようになりました。『天龍村の霜月神楽』の大河内池大神社例祭(おおこうちいけだいじんじゃれいさい)では、25年前から、伊那の歌舞劇団「田楽座(でんがくざ)」が舞の多くを担っています。
私は飯田市遠山の出身で、飯田市美術博物館に就職した後の平成元年(1989年)ころから、本格的に南信州の芸能の調査・研究を始めました。すでにその時点で「この地域の芸能はいつまで続くのか」という恐れがある集落がいくつもありました。それでもどうにか維持されていたのが、ここへ来てバタバタと途絶えるところが現れています。危機的な状況が深まるなか、今回の新型コロナウイルス感染症が重なり、大変心配な状況になっています。
- 『向方のお潔め祭』の様子
民俗芸能は地域の歴史が凝縮されたタイムカプセル
新型コロナウイルス感染症の拡大から1年が経ちましたが、櫻井さんはこの期間、南信州の民俗芸能をどのように見つめていらっしゃったのでしょうか?
櫻井
できるだけいろいろな地域を回って、この危機的な状況に保存会がどう対応しているか、しっかり記録に残そうと努めています。新野の『盆踊』は中止となりましたが、有志が短い時間ではありましたが踊りました。『和合の念仏踊』は地区内の人のみで行われました。『清内路の手作り花火(せいないじのてづくりはなび)』(阿智村)は、上清内路(かみせいないじ)は中止となりましたが、下清内路(しもせいないじ)では神社に奉納する煙火だけを打ちました。
この冬は『遠山の霜月祭』、『天龍村の霜月神楽』、新野の『雪祭』などの状況を確認に歩きました。全般的に「祭事はやるが、芸能はやらない」か、「芸能を一部のみに短縮」して開催する地域が多かったですね。集落そのものが高齢者ばかりですし、県外など地域外の人に頼っているところもありますから、できないということになりました。
新野の『雪祭』は実施している最中にコロナ陽性の方が発生して、中止になった事例ですね。
櫻井
新野の『雪祭』は1月12日から16日の日程で行われるのですが、宵祭りの13日夕方に、阿南町の別の地区で陽性者が発生したという町内放送があったそうです。そこで直ちに中止になりました。本祭りの点火用に準備されていた大松明(おおたいまつ)も、翌日すべて焼かれました。中止の決定をしたのは、諏訪神社で宵祭りの舞をしていた最中でしたが、直ちに面は長櫃(ながびつ)に収めたそうです。祭りが始まってこれからという時に中止になってしまったので、皆さん大層落胆されていました。
- 新野の『雪祭』の様子
今後の新型コロナウイルス感染症の影響を考えたときに、課題をどう捉えていますか?
櫻井
1年だけで再開できれば影響は少ないでしょうが、もしこの状況が2、3年続いたら危機的になると思います。祭りを支える地元の力が弱っているなか、「毎年やるべきものだから」と続けてきた集落では、休んでしまうことで「やらなくてもいいんだ」という気持ちが生まれないかが心配です。またコロナが収まったとしても、今までと同じ状態に戻るかと言えば、そうではないと思うんです。祭りは密な状態なしには語れないもの。それをどう考えて、どう乗り越えるかが大きな問題として残ると思います。
これから地域の人だけではなく研究者、支援者、行政なども含めて、芸能を保存継承していくために、どういうことを考えていくべきでしょうか?
櫻井
私の活動で言えば、文字による記録と映像による記録をセットにして、きちんと残していくことが大事だと考えています。特に古老の方々に事細かく聞き取りをして、変化の様子を記録しておくことが緊々の課題です。私は「民俗芸能はタイムカプセル」という言い方をしていますが、民俗芸能には地域の歴史が凝縮されています。こうした地域にとっての価値と同時に、芸能史上の価値を明らかにして、それぞれの芸能が一集落のものだけではなく、地域全体、さらには長野県や国全体の共有財産だという意識をつくっていくことが必要です。みんなで大事に守っていくことが持続可能な地域をつくることにつながる――そうした理解が大切だと思っています。
そういう理解があれば、それぞれの立場で芸能を維持することにつながるということかもしれませんね。
櫻井
芸能があることで、地域に対するアイデンティティを持てたり、世代や地域を越えた交流が生まれたりします。そういう意味で民俗芸能を単に一つの行事と考えずに、地域全体を活性化させるものと意識することが大事だと思います。このような趣旨で、平成27(2015)年に南信州民俗芸能継承推進協議会を設立し、長野県南信州地域振興局、南信州広域連合、重要文化財を有する市町村、飯田市美術博物館などが連携して、調査活動やパートナー企業制度※などさまざまな取組を行っています。「南信州民俗芸能ナビ」というサイトでの情報発信もその一環です。個々の町村レベルではなかなか人材の確保や専門的知識の共有ができませんが、大きな単位で取り組むことで地域の文化財を共有し維持していくことができればと考えています。
※南信州民俗芸能パートナー企業制度
南信州の民俗芸能を確実に未来へ継承するため、民俗芸能の保存・継承団体の取組に協力し、支援いただける企業・団体の皆様を、県が「南信州民俗芸能パートナー企業」として登録する制度。
「南信州民俗芸能パートナー企業制度」(長野県南信州地域振興局HP)
- 南信州の伝統芸能を調査・研究されている櫻井弘人さん
- 櫻井さんの著書『民俗芸能の宝庫―南信州』(伊那民研叢書)
櫻井さんの話を伺い、独自の取組をされている地域から、改めてご紹介いただいた『遠山の霜月祭(上村)』、新野の『雪祭』、『向方のお潔め祭(むかがたのおきよめまつり)』の担当者の方々に、祭りへの想い、コロナ禍における動き、そして今後について伺いました。
地域に根ざし、コミュニティによって維持される民俗芸能は、社会の変化からの影響を避けられません。経済活動や生活様式が大きく変化し、過疎化や少子高齢化といった地域の課題があることに加え、このたびの新型コロナウイルス感染症の拡大によって、新たな課題を突きつけられた思いがします。
今年で東日本大震災から10年。被災からこれまでの復興過程において、祭りや郷土芸能が地域にとって非常に重要な役割を持っていることが再認識されています。すでに絶えてしまった芸能もある中で、現在まで継承されてきた地域の営みは大変に貴重なものです。新型コロナウイルス感染症の影響がいつまで続くのかまだ見通せませんが、これを機会に、地域のアイデンティティであり「みんなの共有財産」である祭りや芸能について考えてみるのはいかがでしょうか。そのことを通して、櫻井さんの言葉にもあるように、私たちの持続可能な暮らしについて考える糸口にもなるのだと思います。
何より、この素晴らしい南信州の芸能の数々を、目いっぱい楽しめる日が早く訪れることを、皆様とともに祈りたいと思います。
インタビュアー:野村政之
文:いまいこういち・野村政之
写真提供:櫻井弘人(『遠山の霜月祭(上村)』)、本多紗智(『向方のお潔め祭』)、勝野喜代始(新野の『雪祭』)
「民俗芸能の宝庫」南信州に継承されている民俗芸能のうち国・県指定及び選択の無形民俗文化を紹介するとともに、南信州民俗芸能継承推進協議会の取り組みを発信している。
国指定重要無形民俗文化財 昭和54(1979)年指定
旧暦の11月(霜月)に行われる湯立神楽(ゆだてかぐら)で、昼間がもっとも短く生命力の弱まった冬至のころに全国の神々を招き、お湯でもてなし、太陽と生命の復活を祈る儀式と考えられています。
宇佐美秀臣(うさみひでおみ)さん
私たち上村(かみむら)4地区、中郷(なかごう)、上町(かみまち)、程野(ほどの)、下栗(しもぐり)は神社を中心に保存会がつくられています。外部の方による応援は、上町では2年前から力を借りていて、近隣から10数人が参加してくれています。一足早かった中郷や下栗には首都圏から5人ほどが定着しています。これらは保存会と神社の氏子総代、自治会とが十分に相談をした上で実現しました。その際に女人禁制や、親族が亡くなると1年1カ月喪に服すため祭りに出られないなど、いろいろ決まりごとを取り払った地区もありました。
コロナ禍でも上村の全総代と相談をし、県の指針をもとに自分たちの方針を決め、次に自治会を入れた会合を経て各地区で具体的なやり方を検討してもらいました。上町では面の下にマスクをつけたり、近づいて踊る舞いも距離を保ったり、工夫をしながらすべての流れを行いました。明治元(1968)年に疫病が流行ったときも祭りをやっているんです。その時は疫病退散のための湯立てを増やしたという記録があります。地震があったときも、県道ができたときも安全祈願の湯立てができました。そうやって祭り自体が変化しているので、コロナ禍でもやらなければならないという原動力になりました。
努力して祭りを伝えてきた先人の想いを考えると、模索してできるのなら実現したいし、科学が発達する現代にできないことはないでしょう。また個々の中にもあの時に参加したんだという記憶を残してあげることが重要だと思っています。むしろ休むことで、やらなくてもいいんだとなってしまう方が怖いですね。
国指定重要無形民俗文化財 昭和52(1977)年指定
文永2(1265)年ごろから続く、雪を豊年の吉兆とみて田畑の実りを願う祭り。本祭りは、1月14日の夜から翌朝にかけて伊豆神社境内で行われます。田楽、舞楽、神楽、猿楽、田遊びなどが徹夜で繰り広げられます。
勝野喜代始(かつのきよし)さん
私が保存会の会長になって5年になります。私と祭りの出会いは6、7歳のころ。その後は中学まで参加しましたが、高校へ通うために飯田市に移り、そのまま就職したので途中から抜けました。しかし地元の氏子として、地区の安全や和平を願う祭りですから、深く関わりたいと思い、10数年前からまた参加しています。ご多分に漏れず新野の『雪祭』も担い手不足のため、次世代を育てようと郷土芸能子供教室を立ち上げ、笛や舞の一部を指導しています。もう8年になりますが、現在は地域の子どもの半数くらいにあたる20、30人が参加してくれています。
今年の祭りまでの流れを紹介しますと、12月初旬に関係者が集まって会合をしました。当時は阿南町にコロナの陽性者がいなかったものですから、祭りを行うことになりましたが、町内に陽性者が一人でも出たら中止にするという確認がなされました。その決定後、『お上りお下り(おのぼりおくだり)』というご神体を運ぶ行列も中止することになりました。1月1日には元旦祭が行われました。その後、12日から祭りの準備を始め、13日に始まりましたが、夕方4時ごろに町内放送で陽性者が確認されたという報告があり、関係者と協議して、約束通り中止という結論を出したわけです。戦争中は昼間にやったことがあると聞いていますが、過去に中止をしたことはないそうです。来年の開催について考えるのは、秋になってからですね。今の段階で方向を見い出すのは難しい。今年は残念でしたが、来年は良い形で祭りが行えることを願うばかりです。
国選択無形民俗文化財 昭和49(1974)年指定
『天龍村の霜月神楽』の一つ。正月1月3日に天龍村南西部の向方地区、天照皇大神社(あまてらすこうだいじんじゃ)で行われます。祭りは面形のない湯立神楽で、扇・ヤチゴ・剣などを手に湯ばやしの舞が舞われます。最後に宮人(みょうど)、村人全員が釜の周りに集まり、何編も歌ぐら(舞に合わせうたわれる和歌)をとなえ湯を立て、新しい年の幸せを祈ります。
村松久一(むらまつきゅういち)さん
私は「天照皇大神社」下宮(したみや)の芸能を司る部長という立場です。今年のコロナ禍、中止の声もありましたが、「お潔め」という名前も含め、こういう時にこそやるべきじゃないか、できるだけ本来の形でやりたい、ということでお願いしたら皆さんが賛同してくれたんです。
『向方のお潔め祭』は観光客が楽しめるような盛り上がりがあるものではないんです。基本は湯立神楽ですが、祭りが始まったら水も火も神聖なもの、寒いからと火に手をかざすのも、お湯をかけることもご法度。面もなく、素顔でやります。装束も子どもの舞以外は基本的に質素です。研究者の方からは「神楽の原型」と聞いています。
私は小学校5、6年のころに習いましたが、本格的に取り組んだのは成人になってから。しかし一生涯祭りに奉仕する宮人しかできないため、一般の方から「特別な人たちだけでやればいい」と突き放されたり、宮人の中にも食事制限など厳しさに耐えられない人も出てきて、昭和50(1975)年ごろ存続不可能という事態になりました。私たちのような小さいころに教わった者が止めるのはもったいないと、宮人の方に頭を下げて続けましょうとお願いしたんです。もちろん神聖なところは崩しませんが、いろいろ人も巻き込み楽しみながら形を引き継いでいこうということになっています。今は小学校に上がる前の子がやりたいと言ってくれたり、フリースクールに赴任してきた先生や、首都圏から10年くらい通ってきてくれる方もいます。