〜中山道は魅力がいっぱい〜中山道69次資料館館長・岸本豊さんに聞く
あなたの街に“道”はありますか?道はたくさんの人が歩いてできたトレイル(跡)であり、歴史や文化を後世に残す軌跡でもあります。身近な道の歴史に目を向ければ、今まで見えなかった文化の魅力に気づくことができるかもしれません。軽井沢町の追分宿(おいわけじゅく)にある個性あふれる私設博物館「中山道69次資料館」の岸本豊(きしもとゆたか)館長を訪ね、中山道(なかせんどう)の魅力について伺いました。
京都と江戸を結ぶ中山道は、江戸時代に江戸・日本橋を起点に整備された五街道のひとつ。現在の南木曽町と岐阜県中津川市の境にある馬籠峠(まごめとうげ)を越えて信州に入り、木曽、諏訪などを通って軽井沢の碓氷峠(うすいとうげ)に抜けています。街道には各地に宿場町が設けられ、交通の要衝として栄えました。中山道に69ある宿場町のうち、25カ所が長野県にあります。
中山道の中で、江戸と金沢を結ぶ北国街道(ほっこくかいどう)との交差点に位置するのが軽井沢町にある追分宿。今回お話を伺うのは、追分宿の街道沿いにある「中山道69次資料館」の創設者で、館長の岸本豊さんです。中山道の全宿場町を歩いた岸本さんに、中山道における長野県独特の文化や魅力、宿場町の楽しみ方などを伺いました。
江戸時代の面影残す「中山道」の魅力
もともとは徳島県で地理を専門に教鞭を執っていた岸本さん。休みのたびに中山道へ足繁く通っていました。平成13(2001)年には初の著書『中山道69次を歩く』を出版されています。軽井沢に別荘があった縁もあり、本格的に移住をしたのは平成15(2003)年のこと。なぜ数ある街道の中で中山道や追分宿に注目したのでしょうか。
岸本さん
「東海道(とうかいどう)や中山道、甲州街道(こうしゅうかいどう)、日光街道(にっこうかいどう)、奥州街道(おうしゅうかいどう)の五街道の中でも、特に江戸時代の面影を残すのが中山道です。また数ある街道と比べても中山道はとりわけ距離が長く、地域によって文化の違いや特色があるのも面白いと思います。中山道の追分宿の、今ある場所に資料館をつくった理由にもこだわりがあるんですよ」
岸本さん
「中山道に関する浮世絵は数多く残っていますが、資料館のある場所はまさに葛飾北斎の弟子・渓斎英泉(けいさいえいせん)の描いた追分宿の場所ではないかと推測しているのです。浅間山を背景に人馬が坂を登っている姿が描かれていますね。このように左側に向かって上がる坂道は追分宿周辺に一つしかありませんから、資料館を建てるにはうってつけだと思ったわけです。当時の雰囲気を再現するため、20年ほど前に松並木も植えました」
歴史を学び体験するだけでなく、岸本さんからは中山道に対する深い愛を感じますね。街道を歩いていて「長野県らしい文化」を感じられることはありますか?
岸本さん
「例えば男女が仲睦まじくしている双体道祖神(そうたいどうそじん)でしょうか。中山道に50基あるうち、35基が長野県内のものです。江戸中期の文化人・大田南畝(おおたなんぽ)も、中山道の旅道中で道祖神に注目し、日記に書き残しています」
※大田南畝 寛延2(1749)年~文政6(1823)年
文人として、狂歌・狂詩のほか洒落本・黄表紙(きびょうし)・漢詩文・随筆などに才筆をふるい、『万載(まんざい)狂歌集』ほか百数十点、500 冊を著した。天明期前後の文壇では大きな勢力を誇った。
長野県には約3000基もの双体道祖神があると言われています。「サエ(サイ)ノカミ」「塞・障・幸・賽(さい・さえ)の神」、奥信濃では「道陸神(どうろくじん)」など呼称は様々。発祥は定かではありませんが、信州では江戸中期から高遠藩に所属していた石工を中心に広まったとされています。路傍(ろぼう)に置かれることも多く、旅の安全や集落の平穏を願う往時の人々の願いが込められています。
中山道を「歩く」とは?モータリゼーション(車社会)の進展が忘れさせたもの
諸説ありますが、中山道は距離にして、およそ530キロ。長和町と下諏訪町の間にある標高約1600メートルの和田峠をはじめ、険しい山峡を通ることも少なくありません。積雪量も多く、冬場は1日に進める距離も限られていたことから、宿場の数も必然的に多くなりました。車で数十分の道でも、当時の旅人には1日がかりだったのです。
岸本さんは著書の中で「モータリゼーションの進展は、私たちから歩くことを忘れさせようとしています」と書いています。「歩く」ことは、私たちにとってどのような意味があると思いますか?
岸本さん
「歩いてみるとよく分かりますが、道はたいてい真っ直ぐではありません。クネクネと曲がっていたり、大きくカーブしていたり、歩いて心地良いようにつくられていると感じます。歩いていると景色が変わって、遠くのものもよく見えるのです。車で走っていると前しか見えませんので、見落としてしまうものも多いですよね」
歩いてみることで発見できること、見えてくるものがあります。今でも車では行けない道が多く残る中山道。「街道らしさが感じられ、かつ歩いていて楽しい」と岸本さんが太鼓判を押すのは、岐阜県中津川市にある馬籠宿(まごめじゅく)と長野県南木曽町の妻籠宿(つまごじゅく)を結ぶ馬籠峠。訪日外国人観光客にも人気のコースです。
中山道69次資料館の目の前には、そんな「歩く」ことの面白さを簡単に体験できるスポットがあります。岸本さんが20年近くかけてつくった「ミニ中山道」です。川や峠、見える山など細かく再現されており、看板には各宿場町や道中の見どころなどの案内も立っていて中山道の旅を擬似体験することができました。
追分宿を歩いてみよう!
資料館から歩いて5分の追分宿の見どころを岸本さんに案内していただきました。まず向かったのは「追分宿の分去れ(わかされ)」。北国街道と中山道の分岐点です。
岸本さん
「明治時代の写真を見ると、子抱き地蔵の姿がなくなっています。明治11(1878)年の明治天皇北陸東海御巡幸(めいじてんのうほくりくとうかいごじゅんこう)の際、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の流れもあって、子抱き地蔵が天皇を見下ろすのはよろしくないと近くの泉洞寺に移されていたんですね。現在の形に戻ったのは平成の時代になってからです。時代の流れを感じながら史跡を訪ねるのも面白いですよね」
次に見えてきたのは「枡形(ますがた)の茶屋」。枡形には、馬が走りづらい直角のコーナーをつくることで敵の侵入を阻む目的がありました。城下町や宿場町に多く見られる独特の風景です。現在は国道も通り、桝形の面影は見られませんが、茶屋の建っている向きや建築に当時を偲ぶことができます。
追分宿の東には昭和初期の文豪・堀辰雄(ほりたつお)が晩年を過ごした自宅があり、現在は堀辰雄文学記念館として開放されています。堀辰雄には小説『美しい村』や『風立ちぬ』『ルウベンスの偽画』などの軽井沢を舞台にした作品も多く、避暑地としての魅力や自然の豊かさ、出会った人々との思い出が描かれています。
追分宿の脇本陣であった油屋旅館(あぶらやりょかん)は、元禄元(1688)年に創業。堀辰雄の他にも小説家の室生犀星(むろうさいせい)や芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)、夏目漱石(なつめそうせき)、詩人で建築家でもあった立原道造(たちはらみちぞう)など、多くの文化人が足を運びました。
写真は明治19(1886)年に写真家の日下部金兵衛(くさかべきんべえ)が訪日外国人観光客に販売するため撮影したもの。当時は鉄道開通(直江津~軽井沢間)前、油屋の前には2台の乗合馬車と1台の人力車が置かれています。油屋は交通手段の経営をも兼ねていました。
昭和12(1937)年に油屋旧脇本陣は焼失しますが、堀辰雄や室生犀星ら有志が行った建物再興の募金活動により、建物は昭和13(1938)年に復興。焼失前の油屋の写真をよく見ると、現在の位置とは道の反対側に立地しているのが分かります。
平成24(2012)年には建物を修理し「信濃追分文化磁場 油や」として、アートや古本などの展示会場、イベント会場として営業を行なっています。長い歴史を持つ油屋は、文化の拠点として地域の盛り上げにひと役買っています。
さて、冬季(12月~3月)期間に中山道69次資料館は休館になります。岸本さんはその期間を奥様と一緒に、新しい資料集めや取材に費やすそうです。「資料館は一旦完成すると展示品が増えることは少ないと思います。けれど、当館は毎年、展示品を増やして進化しているので、何度訪れても新しい発見がありますよ」と岸本さん。中山道のほかにも東海道、甲州街道、日光街道など、日本全国の街道や宿場町を訪ね歩いています。来館した方には出来るだけ話しかけ、時にはお茶を出して街道話に花を咲かせるのだとか。中山道に興味を持った方は、ぜひ訪れてみてくださいね。
あなたの街に“道”はありますか?歴史や文化は残っていませんか?身近な場所ほど見逃しがちですが、街道歩きは地域の文化を見直す視点の一つになるかもしれません。筆者の運営するWEBメディア『Skima信州』にも長野県の街道を歩いた記事がたくさんありますよ。文化を育み、残し、そして新たな文化を生み出している街道の魅力に興味を持った方は、ぜひ街道歩きを体験してみてくださいね。
取材・文:Skima(スキマ)信州 山本麻綾
撮影:大木文彦
Skima信州…「信州のスキマを好きで埋める」をコンセプトに、長野県のニッチな観光情報を紹介するWEBメディア。特集「地域の日常に根差す、暮らしの中の文化~ローカル・メディアの視点~」でも詳しく紹介しています。
中山道69次資料館
北佐久郡軽井沢町追分120